音楽好きで商社マンの父、琴師範の母の二女として札幌に生まれ生後間もなく父の仕事の転勤で東京へ。
その後2歳の時現在の横浜へ移り住む。
母の話によると小学校に上がる前の私は自宅にあったオルガンで耳コピで覚えた『エリーゼの為に』を弾きプチ天才ぶりを発揮していたという。
初めてピアノのレッスンに通い始めたのは、幼稚園の年長(6歳)のときだった。
3歳年上の姉と話し合い、「お姉ちゃんと一緒にピアノを習いたい」と母にお願いしたのがきっかけだという。
近所のピアノ教室に通い始めたが、在籍していた6年間で先生が4回も交代するという状況だった。このような環境は決して理想的とは言えなかったが、それでもピアノを弾くことが楽しく、レッスンに通い続けた。
毎日欠かさずピアノを弾いていたものの、夢中になっていたのはレッスンで出される宿題の曲ではなく、当時流行していた歌謡曲や自分の好きな曲だった。
一方で、レッスンで使用する教則本の練習は苦手で、特に好きではなかった。それでも「はなまる」をもらいたい一心で、いかに効率よく宿題を仕上げるかを考えるようになった。好きな曲を弾く時間を確保するため、自分なりの練習法を編み出していたのも、この頃からだった。
小学2年生のある夏の日のことだった。
放課後、校庭で友達と鬼ごっこをして遊んでいた時のことだ。突然、仲の良いクラスメートのSくんが目の前で倒れ、苦しみながら泡を吹き始めた。その衝撃的な光景に驚き、何も考えずに職員室へ駆け込んだ。
救急車の音が学校に響き渡る場面までははっきり覚えているが、その後の記憶はほとんどない。
数日後、気がつくとSくんの自宅を訪れ、大きな黒いリボンが付けられた彼の写真に手を合わせていた。
次の日、当時でも珍しかった土葬で、彼がそのままの姿で樽に入れられ、土に埋められる場面を目の当たりにした。その光景は今でも忘れることができない。
この出来事は幼い私に大きな影響を与えた。Sくんの突然の死をきっかけに、私は「死」への恐怖心を抱くようになった。「明日の朝、目が覚めなかったらどうしよう」「私は絶対に死にたくない」――そうした不安が、平和な夜にも私を襲った。
その恐怖は10年以上も続き、震えながら夜を過ごす日々が何度もあった。しかし、眠れないまま疲れ果てたとき、ある自己暗示を心の中で繰り返すようになった。
「そうだ、だからこそ私は一生懸命生きるんだ。」
この言葉が私の恐怖心を和らげ、生きることへの覚悟と力を与えてくれた。
小学校では、授業外の活動として合唱クラブ、鼓笛隊、水泳クラブ、ミニバスケチームなどがあり、私は欲張りにもそのすべてに所属して活動を楽しんでいた。
「日本で一番多忙な小学生!」と勝手に自称していたのを、今でも懐かしく思い出す(笑)。
小学5年生の時、担任の先生から「クラス全員が参加できる合奏曲を作ってほしい」と頼まれた。当時大流行していたアニメ『キャンディキャンディ🎶』の主題曲を、みんなが楽器で演奏できるようにアレンジし、地域の音楽イベントで発表することになった。
この演奏はちょっとした話題を呼び、私にとっては今でも誇らしい思い出の一つだ。
中学生になると、父の勧めで当時非常に厳しいと評判だった剣道部に入部した。同時に生徒会の役員も引き受け、大忙しの毎日を送っていた。毎日の帰宅時間は19時を過ぎることが当たり前だった。
そんな中、知的ハンディを持つ姉が通っていた養護高校(現在の特別支援学校)のイベントに参加する機会があった。そこで、ハンディを持つ方々が会場に流れる音楽に合わせ、自由に生き生きと身体を動かし、思い切り音楽を楽しむ姿を目の当たりにした。
その光景に強く心を打たれ、なぜだか涙が溢れてくるのを必死にこらえたのを今でも忘れない。まさに『音楽の力』を間近に感じた瞬間だった。
また、この時期にピアノの先生が教室形式から個人の先生に変わり、レッスンの内容も一段とハードになっていった。
ピアノの先生から音楽高校を勧められたが、「高校までは公立の普通科で過ごしたい」と強く宣言し、県立高校の普通科に進学した。
入学後、軽音楽部に所属し、仲間と音楽を作り上げる楽しさに夢中になった。オリジナル曲を制作し、コンテストや学校祭で披露するなど充実した日々を過ごした。
キーボードはもちろん、シンセサイザー、ギター、ボーカルにも挑戦し、幅広い音楽表現に取り組んだ。
しかし、楽しいだけの毎日は長くは続かなかった――。
バンドの仲間や友人たちからは、当然のように音大に進学するのだと思われていた。
小さい頃から音大への憧れを抱いていた私だったが、さまざまな理由からその道に一心に突き進むことができずにいた。その理由の一つは、当時私が憧れていた東京音楽大学が、師事していた先生の勧める音大ではなかったことだった。
その先生は桐朋学園大学の先生であり、桐朋に進学することが当然とされていた。他校を受験するなど言語道断という雰囲気だった。しかし、東京音大への思いを諦めきれなかった私は、高校3年の夏、悩んだ末にたった一人で東京音大の事務室を訪れた。
その夏、東京音大の夏期講習会に参加することができ、幸運にもトップクラスの教授のレッスンを受ける機会に恵まれた。その結果、9月からM教授(世界的ピアニストを多く育て、自身もピアニストとして活躍していた)の自宅で個人レッスンを受けることができるようになった。
この奇跡的な出会いによって、東京音大受験への道が開かれた。
M教授のレッスン空間はまさに夢の世界だった。演奏会の客席で憧れていた有名ピアニストたちが普通にレッスン室に現れたり、日常会話にその名前が出てきたりすることもあった。しかし、その華やかな環境とは裏腹に、M教授のレッスンはこれまで経験したことのないほど奥深く厳しいものだった。
受験曲を練習し始める他の受験生とは違い、私はこれまでの曲をすべてやめさせられ、基礎から、いやゼロから音楽を叩き直された。
「今まで自分が弾いていたピアノは一体なんだったのだろう?」
そんな思いに途方に暮れる日々が続いたが、M教授の指導は容赦なく、時にはレッスンが3時間を超え、終電を逃してしまうことも珍しくなかった。
それでも、時間を惜しまず親身になって指導してくださるM教授の姿は、次第に「真の教育者」の姿として私の心に深く刻まれていった。
この出会いは、現在でも私が敬愛するM教授との縁となり、私の長い音楽人生における大きな基盤となったことは間違いない。
一浪の末、憧れ続けた東京音楽大学に入学を果たした。
しかし、その喜びは長く続かなかった。入学後すぐに、周囲との圧倒的なレベルの差を目の当たりにし、自信を失ってしまった。
そんな落ち込んでいた頃、当時大学4年で同じ教授に師事していた川上昌裕さん(後に世界的に有名なピアニスト、辻井伸行の育ての親となる)と出会った。川上さんとの出会いは私に大きな刺激を与え、その後も良き相談相手であり音楽仲間として、多大な影響を受けることとなった。
大学では素晴らしい音楽や質の高い友人たちに恵まれ、遅れを取り戻そうと必死に努力を重ねた。その結果、「やればやるほど上達する」という実感を持つことができた。大きなコンクール前には、多い時で1日10時間以上ピアノに向かう日々を送った。
努力の成果は実を結び、実技成績はめきめきと向上。卒業時にはトップクラスのレベルに到達していた。大学からは学内音楽講師としての推薦を受け、父からは海外留学を勧められた。
しかし、私はどちらの道も選ばなかった。安定した経済的自立と、さらなる演奏技術の向上を目指していた当時の私は、まだ人間としても未熟だと感じており、本業としてピアノ講師になるという選択肢も考えられなかったのだ。
そこで選んだのは、母校への一般就職だった。この道を選べば、自分がやりたいことがすべて叶うと信じていた。
東京音大を卒業した翌月の4月、母校の教務職員として働き始めた。
朝が早い職場だったが、定時で仕事を終えられる環境を活かし、空いた時間でピアノの練習に励み、演奏会にも積極的に出演していた。また、勤務が休みの日には生徒へのレッスンも行い、多忙ながらも充実した日々を過ごしていた。
そんな中、長年の夢であったソリストとしてオーケストラと共演する機会を得たのも、この時期だった。寝る間も惜しんで活動していたが、体力的にびくともしなかったこの頃は、まさに人生が楽しくて仕方がなく、充実感に満ちた瞬間だった(笑)。
しかし、そんな絶頂の中で大きな転機が訪れる。
社会人3年目の秋、遅めの夏休みを利用して、毎年恒例の家族旅行で箱根を訪れた。登山中、母が誤って山から転落するという思いもよらない事故が起こった。
幸い命は助かったものの、母は腰椎を2本骨折し、全く動けない状態になってしまった。そのまま現地近くの病院に入院となり、笑顔で4人で出かけた旅行は、3人での寂しい帰宅となった。
この日から、家事全般に加え、入院中の母のサポートや、姉の日常生活のフォローを全て私が担うことになった。
想像以上の忙しさに直面し、大学での勤務を続けることは困難となり、やむを得ず退職を選ぶことになった。
当時の母は幸い52歳とまだ若く、過酷なリハビリにも耐えることができた。その努力の甲斐あって、事故から3ヶ月が経った頃には、ギプスをつけたまま少し動けるまでに奇跡的に回復し、無事退院を果たした。
やっと家族が揃い、大変だったが今年も4人で年を越せると誰もが信じていた。その暮れも押し迫る12月のある夜、突然1本の電話が鳴った――
父が亡くなった。
交通事故による突然の死だった。信じられない現実に直面し、私はただ呆然とするばかりだった。
朝、いつものように会社に出かけた父が、その日の夕方には帰ってこない――そんなことが本当に起きるとは思いもしなかった。
小さい頃、忙しい母の代わりに演奏会に連れて行ってくれた父。ピアノのお稽古を見てくれた父。学校の勉強を教えてくれた父。
歌が大好きで、独学で覚えたピアノを弾きながら楽しそうに歌っていた父。私が困ったときにはいつも相談に乗り、優しく導いてくれた父。
仕事もでき、周囲に慕われていた父は、私にとってまさにスーパーマンだった。そんな大好きな父が、突然この世からいなくなってしまった――その現実をどう受け止めたらいいのか、全く分からなかった。
その時、私は痛感した。
「世の中に当たり前のことなど一つもない。」
「生きていること自体が奇跡なのだ。」
現実を受け入れることができず、心が苦しみに支配された。
そしてその日から、我が家から音楽が消えた。残された家族全員が、音楽を聴くことすら辛くなってしまった。ピアノを弾くことはなおさらだった。
父と過ごした日々は、夢か幻だったのか。
いつか父が突然帰ってくるのではないか――そんな淡い期待と現実の狭間で、私は長い時間を過ごした。
それから二年の月日が経ち私は再び演奏会場にいた。
やはり生きる道は音楽、と確信した私はヤマハのシステム講師の資格、運転免許もとり音楽教室の他、自宅や出稽古での生徒も合わせて週に40人程のレッスンを行い同時に演奏活動も精力的に行うようになっていた。
家族を残しまだ56歳という若さで突然亡くなった父の無念を考えるととにかく前を向いて笑顔で一生懸命生きる他無かった。
身体が弱った母とハンディを持つ姉のためにももう泣いてはいられなかった。
そんなときピアノの音色がわたしを癒してくれた。
生徒達の笑顔がわたしを励ましてくれた。
そして『音楽の力』によってわたしは生かされていた。
その後、縁あって音楽好きのサラリーマンと結婚し、二人の子宝にも恵まれた。
演奏活動はできなくなったものの、レッスンは一度も休むことなく続けていた。この頃には音楽教室勤務を辞め、自宅で生徒たちに教える日々を送っていた。
子育て、家事、そしてレッスン――目の回るような忙しさの中でも、音楽はいつもそばにあり、優しく私たち家族を包み込んでくれていた。
そんな中、友人の川上昌裕さんがウィーンから帰国し、辻井伸行くんの指導を始めていた。ある合同発表会で、小学2年生だった辻井くんの演奏を初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れられない。私だけでなく、同じステージに立っていたお弟子さんたちも、彼の音楽性と人を惹きつける圧倒的な力に圧倒された。
その発表会では、目の不自由な辻井くんをピアノの位置までエスコートする役も担った。ふわっとした小さな手を握った感覚は今でも鮮明に覚えている。
この出会いは、私にとっても、お弟子さんたちにとっても大きな影響を与えた。
そして、その13年後に彼がバンクライバーン国際ピアノコンクールで世界一のピアニストになるとは、そのとき誰も想像していなかった。
あの小さかった辻井くんも16歳になり、将来の活躍が期待される存在となった。メディアにも多く登場するようになり、その姿をまるで親戚のおばちゃんのような気持ちで、小さな子どもたちと一緒に見守っていた。
充実した毎日を送っていたある夜のこと。
就寝中、突然左耳の激痛と360度ぐるぐると回転するめまいに襲われた。恐怖のあまり、布団を必死に掴んで耐えた。
大学病院での診断結果は、極度の緊張感や過度なストレスが原因の蝸牛型メニエール病だった。そのまま緊急入院となった。
ここ数年、浮遊性のめまいや耳の違和感、微熱の症状を感じてはいたが、入院時にはすでに左耳の聴力を失っていた。右耳は聴こえているものの、バランスが悪く、ガヤガヤした環境では音をうまく聴き取ることができない。内耳にかなりのダメージがあり、歩くと体がどんどん左に引っ張られ、車椅子での移動を強いられた。
今まで経験したことのない、恐ろしい感覚だった。
直ちに手術が行われ、痛みからは解放されたものの、耳の聴力は戻らなかった。
入院から1週間後、主治医に別室へ呼ばれ、左耳の聴力が二度と戻らないことを告げられた。その瞬間、絶望に襲われた。
ちょうど翌年からは上の子どもが小学校に入学し、自分の時間が少し増えることを楽しみにしていた時期だった。ピアノに向き合える時間が増えることを期待し、心待ちにしていた矢先のことだった。
「もう終わった……」
病室のベッドに布団を被り、声を殺して泣いた。
数日後、同室に入院していた末期がん患者の女性が私のベッドサイドに来た。彼女は毎日死の恐怖と戦いながらも、私の状況を知って優しくこう言った。
「一緒にがんばろう。」
その一言に、私は涙が溢れた。それは悲しみや苦しみから流れる涙ではなく、本物の優しさに触れ、心が癒された感激の涙だった。
「そうだ、私は今、死ぬと言われているわけではない。」
「ご飯は美味しく食べられている。」
私は間違いなくここで生きている。そして、痛みも苦しみも、生きているからこそ感じられるものなのだと気づいた。
それから10年以上が過ぎ、多くの合併症に苦しみながらも、左耳の聴力は日常生活に支障がないほどまで回復した。まさに奇跡だった。
音楽をはじめ、私を取り囲む全てのものが私にパワーを与え、奇跡を起こしてくれた。
その後、この命を大切に生きる決意のもと、長年温めてきた夢を実現するため、音楽の都ウィーンで約ひと月間、音楽留学生としての生活を経験した。
生徒のレッスンで埋まっていた日常から離れ、音楽大学での学びに集中する日々を過ごした。自分の子供と同世代、またはそれより若い世界中の優秀な学生たちとの交流は、刺激的でかけがえのない時間だった。
また、現地の音楽や環境に触れる中で、日本とオーストリアの文化や価値観の違いを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この経験を通じて、生の音楽や自然に触れることの大切さを深く実感し、それを未来を担う子供たちや生徒たちに伝えていくことが私の使命だと確信した。
これまで幾度も大病や怪我に苦しんできたが、今もこうして生きていることに感謝している(いえ、『生かされている』と言うべきだろうか)。
毎日が感謝の連続だ。痛みや辛さがなければ、もっと感謝できる。そして、音楽の力を感じられたなら、それは最上級の感謝だ。
